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zoom RSS アメリカに皇帝がいて敬愛されていた!?

<<   作成日時 : 2012/12/26 22:30   >>

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たまには「エー!」と感じるような面白い話にぶつかりたいなと思うことがありますね。ただうそのようなことではつまらない。そこで今回は「アメリカにいた皇帝」の話をしましょう。気軽に話を楽しんでください。

★アメリカのサンフランシスコにはかって皇帝がいました。

アメリカは合衆国で大統領制の国ですね。独立以来ずっとその制度であったはずですが、かってアメリカには皇帝がいたことがあります。それは1859年から1880年の間の21年間、サンフランシスコにいた皇帝でした。

その皇帝の名前はジョシュア・エイブラハム・ノートン(Joshua Abraham Norton)です。彼はイギリス、ロンドンで1819年に生まれました。ただノートンの出生地はイングランドであるという事以外は、実ははっきりとした証拠がありません。彼は南アフリカで幼少期を過ごした資産家の息子でした。その後1949年にアメリカ、サンフランシスコへ移住しました。1849年は、カリフォルニアはゴールドラッシュに沸いていた時代でした。ノートンは父の遺産の4万ドルを手にしてサンフランシスコにやってきたのです。よろず屋や不動産業で4万ドルを運用して、事業はそこそこに成功し、1853年までに資産は 25万ドルまでになっていて、まずまずの裕福な暮らしをしていました。しかし米(こめ)の投機に失敗して、2年後には破産してしまいました。この頃から彼は正気を失ってきたのではと言われます。

破産後、ノートンはサンフランシスコの邸宅を去って行方不明になりましたが、失踪してから一年後に、彼はサンフランシスコに舞い戻って来ました。そしてノートンは突然にある考えに至りました。それは合衆国の政治体制(共和制、連邦主義)には著しい不備があり、それを絶対君主制の導入によって解決するというなんとも言えない信念にとらわれたものでした。そして彼は自分がその象徴として帝位請求者になろうと決意したのです。

アメリカ合衆国皇帝ノートン

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1859年9月17日、彼はサンフランシスコの新聞各社に手紙を送り付けて、「合衆国皇帝」たることを宣言しました。即位宣言はどこからも正当な扱いを受けなかったのでしたが、サンフランシスコ・コール紙のみが、ジョークとして皇帝宣言を掲載した新聞を発行したのです。1週間後には 2度目の声明で、彼は 「議会を廃止して皇帝の親政を布く」 と宣言しました。 どうしたわけか、このことはサンフランシスコ市民には大ウケし、一気に市を代表する名物男になりました。しかしアメリカ合衆国政府が最初に続いて、 2度目の声明をも無視する態度をとると、皇帝ノートンは陸軍最高司令官に、 「しかるべき軍隊をもって進攻し、議事堂をきれいに片付けよ」 と命令したのですが、合衆国陸軍にはそんな命令は当然のことながら無視されました。さらに1860年には連邦制の廃止と結社の禁止を勅令により宣言しました。1861年南北戦争が勃発すると、皇帝ノートンは仲介の労をとるべく、南北の代表のエイブラハム・リンカーン と ジェファーソン・デーヴィス に召還令を出しましたが、いずれも反応がありませんでした。

★皇帝ノートンは先見性があり、人々から敬愛されていました。

皇帝ノートンはむやみに宣言や命令を発するばかりではありませんでした。人から愛される行動や、先見の明とも言えるアドバイスも発していたのです。その例を挙げてみましょう。

サンフランシスコでは、1860年代から70年代にかけて、当時増えきていて、低賃金で働いて、雇用を奪ってしまっている状態の中国系住民に対して、白人市民のデモが貧しい地域で時々起こっていました。これは流血の状態にまでなっていたのです。ある時、このようなデモのひとつに丁度、皇帝ノートン1世が居合わせていました。彼は白人暴徒たちと、リンチを受けそうになっていた中国系住民たちの間に立って、ノートンは頭を垂れ、何度も主の祈りを口ずさんで暴行をやめるように祈っていたのです。それを見た暴徒たちは恥じて暴行を止め、解散してしまったと言われています。

彼のちょっとおかしいとも言える言動にも拘らず、また実際の彼の精神状態とも関係なく、皇帝ノートン1世が時として予見的、先見的な発想を発することがあり、皇帝勅令はある意味、彼の視野の広さの表れとも言えることがあります。なんと初めて「国際連盟」の設立を命じたり、宗教・宗派間の無駄な紛争を禁じたりする指示があります。さらに驚いたことに、皇帝は何回も、オークランドとサンフランシスコを結ぶ懸架式橋梁の建設を命じていて、当局がその命令に従わずにいることに苛立ちを表していました。彼の度重なる命令にも拘らず、架橋命令はずっと後になって実行されました。そして彼の発想であった、サンフランシスコとオークランドを結ぶ、サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジの建設は彼の死後、55年後の1936年に完成して実現したのです。これによりサンフランシスコの半島は、直接内陸と結び付き、大変便利になりました。

サンフランシスコ湾に皇帝ノートンは橋を架けるように命じました。それがサンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジです。地図の半島の突端と右側のオークランドを結ぶ橋。


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サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジ

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さて皇帝ノートンはどんな暮らしをしてたか、どのように市民に敬愛されていたか見てみましょう。

ノートンはサンフランシスコで皇帝宣言をすると、皇帝の住む家すなわち、宮殿を造ろうとしました。古いレンガ作りの狭いワンルームのアパートが、ノートン皇帝の宮殿になりました。 時々、二匹の犬と散歩したり、途中で人々からの敬礼には鷹揚にうなずき返したり、町の様子を見聞したりしました。日曜には各地の教会のミサに出席しました。サンフランシスコの人々は皇帝の食事代や宿代、交通費などはすべては無料として扱いました。時々、新聞社に行って「勅令を出すから新聞に載せてくれ」と言い、勅令を掲載してもらっていました。

サンフランシスコ市民は当時、皇帝ノートンをとても敬愛していました。ほとんど金がなかった彼ですが、最上級のレストランでたまに食事をとったりしすると、そのレストランは、「合衆国皇帝ノートン1世陛下御用達」と刻んだブロンズのプレートを店の玄関に飾ったほどでした。皇帝ノートンはこのような店の行為は許すことにしていて、このプレートは実際にレストランの売り上げに大いに貢献したらしい。サン・フランシスコの音楽堂と劇場では、皇帝が貴賓席に現れると、ファンファーレを鳴らし、それまでは幕を開けることはしませんでした。

サンフランシスコ市もその皇帝たる「権力者」に名誉を与え敬意を表しました。かれの着ていた軍服が古びてくると、市当局は盛大な儀式をして、新しい軍服を買うのにお金を支出しました。それに対して、皇帝は感状を送り、終身貴族特許状を発行したのでした。セントラルパシフィック鉄道は、ある時、電車の食堂車で食事をした皇帝に支払いを請求したために、市民から不興を買い、勅令によって営業停止命令を受けたことがありました。多くの市民が皇帝のこの行為を支持したので、反響に驚いたこの鉄道会社は、皇帝に金色の終身無料パスを奉呈して謝罪しました。

1867年のある日、アーマンド・バービアという若い警官が皇帝ノートンを捕え、嫌がる彼に対して、精神病の治療を受けさせようとしたことがありました。しかし、この逮捕は、サンフランシスコ市民と新聞による強い抗議の騒動に発展しました。そこの警察署長はこれに対して、ノートンを釈放し、警察として公式に謝罪しました。ノートンは寛大にもこの若い警官による大逆罪に特赦を与えました。この騒動以降、市の警官たちは、通りで皇帝に会った時は彼に敬礼するようになったのです。

★皇帝ノートンについて公的記録にもある。もしかしたらナポレオンの子孫か?

この皇帝ノートンには公的記録があります。1870年のアメリカの公的な国税調査では、その統計表において彼を、「ジョシュア・ノートン、住所;コマーシャル・ストリート624番地、職業:皇帝」と記しているのです。その当時の彼の正式な肩書きは「合衆国皇帝にしてメキシコの庇護者ノートン1世」でした。また、その当時の皇帝は、少額負債の支払いのために、独自の国債を発行しており、それはこの地域経済で完全に承認、通用されていました。この国債は50セントから10ドルまでの額面で発行されていたのですが、最近のオークションにその国債がでると、その希少価値のため1000ドル以上の値が付いているそうです。ここまで来ると、本物の皇帝と人々の扱いが同じになってきています。

皇帝ノートン発行の国債10ドル

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彼には、色々なうわさや憶測の記事になったものがあります。そのうわさとは、彼は本当はナポレオン3世の子で、南アフリカ出身と言うことになっているのは、本国その他の追及をかわすためというものです。彼はフランスのナポレオン3世によく似ていたこともあって、この噂が出てきたのかもしれません。別のうわさでは、皇帝ノートンは、なんとイギリスのヴィクトリア女王と結婚しようとしているというものです。皇帝ノートンは実際、女王と何度か手紙を交わしたことがあり、その交流によって女王に忠告を与えていたとのことでした。さらに、ノートンは本当は大金持ちだが、それを隠して、貧民に対する同情の念から貧しさを装っていたのでは、といううわさもありました。

皇帝ノートンと似ていたと言われるナポレオン3世

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★皇帝ノートンの死とその後

1880年1月8日の晩、皇帝ノートン1世は、科学アカデミーでの講演に向かう途中で急に倒れました。駆けつけた警官が馬車による緊急救援を要請し、皇帝を病院に運んだのですが、馬車が病院に着く前に皇帝は息を引き取ったと言われます。

翌日のサンフランシスコ・クロニクル紙は「王は逝けり」という見出しで一面に追悼文を載せました。 その内容は「みすぼらしい敷石の上で、月のない暗い夜、しのつく雨の中で…、神の恩寵篤き合衆国皇帝にしてメキシコの庇護者ノートン1世陛下が崩御された」というものでした。

また、東部のニューヨーク・タイムスにも追悼記事が掲載されました。それは「ノートン一世は誰も殺さず、 誰からも奪わず、 誰も追放しなかった。 皇帝の称号を持つ人物で、彼に勝る者は1人もいない。」 というものでした。皇帝ノートンの葬儀では、金持ちから貧民まで、階層にかかわらず、多くの人々が皇帝に敬意を表し、皇帝との別れを惜しんだと言われます。彼の葬儀には3万人が列席し、参列者の列は3キロも続き、 2日間に渡って最後の別れを告げに多くの人々が来たと言われます。ノートンは在位21年の間、アメリカ合衆国史上で最初で最後の皇帝だったのです。

残念なことに、ノートン一世には子供がいませんでした。皇帝の帝位の継承者がおらず、皮肉なことに、皇帝の死後のアメリカは、ある意味、民主主義という名の、拝金主義の格差社会へと堕落していくことになったのです。もしも、ノートン王朝がその後続いていたなら、アメリカは随分と変わった国になっていたかもしれません。現代でも、アメリカ最良の時代だったとも言われるノートン王朝時代を懐かしむ人々は多くいて、その首都だったサンフランシスコでは毎年、追悼行事が行われていると言うことです。

1934年、皇帝ノートンの遺骨は改葬されて、今はカリフォルニア州コルマのウッドローン墓地に眠っています。墓石には「ノートン1世、合衆国皇帝、メキシコの庇護者」と刻まれています。1980年には、サン・フランシスコでは、「合衆国皇帝ノートン1世の死後100年」を記念するいくつもの行事が開かれました。

皇帝ノートン1世の墓

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★皇帝ノートンあれこれ

皇帝ノートンは今でもサンフランシスコでは人気があり、皇帝(観光ガイド)によるサンフランシスコの歩くツアーもあり、市の観光やノートンのことを知ることができます。


サンフランシスコの皇帝ノートン歩くツアーの案内ページ(英文)
(Emperor Norton's Fantastic San Francisco Time Machine)


http://emperornortontour.com/

*サンフランシスコの有名なチョコレート会社、ギラデッリは二本のバナナとひとつかみのナッツが入った「ノートン皇帝アイス」を売っています。このアイスにバナナとナッツが入っている理由が面白い。英語で「彼はバナナだ」と「彼はまったくナッツだ」という言い方は「頭のおかしい人」という意味になるので、このアイスはノートン皇帝の変わった性格を思い出させるアイスと言うことになっています。

チョコレート会社ギラデッリではノートン皇帝アイスを売っている。

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*ノートンの滑稽な行動は、当時サンフランシスコ市民だけでなく、州外にも知られていて、マーク・トウェインによって小説「ハックルベリー・フィンの冒険」に登場する「王様」のモデルとされています。また漫画「ラッキー・ルーク」に登場するアメリカ皇帝もノートンを原型としていると言われます。

*サンフランシスコの街中にはノートン皇帝カフェがあったり、ホテル名に「Emperor Norton Inn」があったりします。ずっと以前の人なのに、ここまで皆に愛されて、その名前が今でも定着しているのがわかります。

ホテル、皇帝ノートン・イン(Emperor Norton Inn)

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ホテル、皇帝ノートン・インの案内ページ

http://www.emperornortoninn.com/

*日本でも皇帝ノートンは知られています。それは、2011年の宝塚の宙組公演「記者と皇帝」に取り入れられて舞台化したのです。ノートン皇帝に関わるコメディ的な楽しい演目でした。

宝塚の宙組公演「記者と皇帝」のパンフレット

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宝塚「記者と皇帝」の案内ページ

http://stage.corich.jp/stage_detail.php?stage_id=26152

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アメリカに皇帝がいて、しかも人々から敬愛され、今でも親しまれているなんて、なんとも言えない話ですね。

ノートンは自称、皇帝ですが、皆が「彼が皇帝だ」と言って尊敬し、その言葉にすなおに耳を傾けていました。彼が変な耐えられないような皇帝ならば、皆に無視されたはずです。ある意味、民衆から認知され選ばれた「心の中の皇帝」とも言えます。そんな彼を許したその当時の人々は、現在のせわしない社会に生きる人達よりも、おそらく心に余裕とおおらかさがあったのではないかと思います。今の人々はそんな心を持っているでしょうか?

死語100年以上経っても、今でも語り草になっているアメリカ皇帝ジョシュア・ノートンとはなんだったんでしょうか? これはなんとも興味深いことですね。

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
すごく面白くて、びっくりです。Jackさんどんなきっかけでこの愛すべきノートンの事を知ったんでしょうか?サンフランシスコに三回行った事がありますが、名前すら知らなかったです。彼破産した後、生活に困るどころか、仕事にも就かず職業皇帝の名の下に、皆さんに愛されて生活が出来たとは、人徳の至り?その当時の人々はノートン皇帝を愛せるほどユーモアがあり、気持ちにも余裕があったんでしょうね?今でさえ人気があるとは信じられないです、宣伝、商売に利用しているとか?かんぐりたくなってしまいました。
Anne
2012/12/28 21:32
Anneさん

世界にはこの他にも、自称皇帝がまだいたようですが、このように愛された皇帝は居ないようです。4
年前にサンフランシスコ行った時に、このことを偶然知りました。現地の新聞や街中の広告で目にとまったのです。よくわからないまま日本に帰り調べたら、上記のことが判りました。

旅で、ただ観光でいいな、綺麗だなと漠然と過ごすのも楽しいことですが、私は皆が見ないようなところを見るので好きで、それを見つけるとメモしたり、写真に取っておいて後で調べます。

ノートン皇帝のような人が今現れたら、人々はどう反応するか興味あるところです。
Jack
2012/12/29 18:55

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